「小説やらまいか 豊田佐吉傳」(前編 母子の金字塔)

北路透が音声で解説! 前編 母子の金字塔

豊田佐吉は慶応3年、湖西で誕生した。伊吉とゑいの子で、長男だった。

伊吉は、社寺建築を手掛ける名工で、二宮尊徳の信奉者だった。ゑいは、日蓮宗に帰依して深い愛情で子供たちを育てた。家は貧しく、ゑいは機織りをして家計を支えた。佐吉は、母親が機織りをする音を聞き流れながら育った。だが安政5年の開港以来、安価な外国製品が流入して、湖西の綿織物は打撃を受けていた。

佐吉は12歳の時、丈夫な身体になろうと岡崎の岩津天満宮詣(往復100キロ)を思い立ち、踏破した。また、尋常小学校を卒業する際に「太平洋の真ん中に大きな島を作る」という作文を書いたが、荒唐無稽だと先生や同級生から失笑された。しかし、ゑいは褒めた。

佐吉は13歳から、大工の修業を始めた。

佐吉は、村の若者たちと夜学会を開き勉強を始めた。「西国立志編」という本に出会い、紡績機を発明したイギリス人の大工にあこがれた。

19歳になった佐吉は専売特許条例を知り発明家を志すようになった。「大工を辞めたい」と言い出して伊吉と衝突。

何を発明すべきか迷っていた佐吉だったが、母「ゑい」が苦労して機織りする姿を見て、「織機」を目標にすることを決めた。「衣は日本の将来にとって重要な問題で、誰かによって解決されねばならない大事じゃ。一生涯を捧げたなら、できないことはない。よし、やらまいか」。佐吉は納屋にこもって発明に取り組むが、村人から理解されずそしりを受けた。だが、ゑいは息子を信じて励ました。

佐吉は明治23年、人力織機の発明に成功し、初めて特許を取得した。

佐吉は明治25年、東京で機屋を開業したが失敗し、脚気病になって失意の帰郷した。だが「人力では駄目だ。蒸気で動く力(りき)織機の発明が必要だ」と新たな目標を得た。

佐吉は明治26年、父に無理やり結婚させられる。だが、新妻の「たみ」は夫を理解できず苦んだ。

佐吉は明治27年、妻子を残して失踪した。力織機の発明を応援してくれる支援者を探すためだった。幸い知多半田の乙川村で石川藤八と出会い支援を得て、ここに力織機の発明が始まった。妻「たみ」は喜一郎を産むが、家を出た。

佐吉は明治28年、力織機の発明に成功した。それまでの機織りは人力に頼る農家の家内工業だったが、機械を使った近代的工業に変える画期的な発明だった。

だが、名古屋で共同で事業を興した伊藤久八にオカネを使い込まれて債権者に訴えられ、多額の借金を負ってしまった。

石川家の女中・浅子は、佐吉の食事の世話係だったが、次第に心を寄せるようになっていた。浅子は名古屋まで押し掛けて同棲を始めた。

佐吉と浅子は明治29年、名古屋市宝町(テレビ塔付近)で豊田商店を作った。経営能力がなく失敗を重ねた佐吉だったが、後妻浅子を得て人生が拓ける。浅子は懸命に働いて佐吉を助け、機屋の女将さんとして工場を切り盛りして豊田の基礎を築く。また、服部兼三郎という繊維商人と出会い、その支援を受けることで借金を返済した。

だがその頃、たみは脚気病に罹り入院し、喜一郎に会うことも出来なくなって悲しんだ。

石川藤八は明治30年、佐吉の力織機を導入して乙川綿布合資会社を設立した。佐吉も、名古屋市武平町で廃屋寸前の武家屋敷を借りて、織機を製造する工場にした。佐吉と浅子は正式に結婚し、喜一郎も呼び寄せて名古屋で暮らし始めた。

乙川の綿布工場が織った製品が三井物産の藤野亀之助の目に止まった。綿布の輸出が課題だったので、力織機を考案した佐吉は不世出の発明家として喧伝され一躍時の人に。三井物産が設立した井桁商會に迎え入れられ技師長になる。

井桁商會は業績不振に陥り、佐吉は辞任に追い込まれた。落ち込んだが、浅子は逆に赤飯を炊いて門出を祝った。浅子は機屋を再開して夫を支えた。

佐吉は明治35年、屋号を豊田商會に変更した。借りていた土地を買収し、そこに武平町工場を建築。伊吉は大工の腕を振るった。