「小説やらまいか 豊田佐吉傳」(後編 病いとの闘い)

北路透が音声で解説!

<後編>病いとの闘い

明治36年、伊藤久八は以前佐吉を騙した男だったが、お人好しの佐吉は許して雇い入れてしまう。しかも艶子という得体の知れない女も入れてしまった。艶子はキツネ顔の美人だった。2人はすぐ問題従業員になる。弟の佐助に招集令状が来た。

明治37年、日露戦争が開戦し、佐助が出征した。佐助を心配する「ゑい」は脳卒中で倒れてしまうが、一命を取り留める。佐助は大怪我をしながらも帰国する。艶子は織機の設計図を盗んで浜松の競合会社「鈴井式織機」に売り渡した。おかげでソックリの製品が出回った。

日露戦争は日本の勝利に終わる。だが、佐吉はイギリス製との性能検査で完敗してしまう。「世界一の織機を発明して、日本人は知恵で劣らねえことを証明してやる」と誓う。

大口顧客であった服部兼三郎の倉庫が全焼し、佐吉は連鎖倒産の危機に陥った。あげくに久八と艶子が共謀して会社の手形を盗んだ。二人は逮捕されて裁判にかけられたが、久八だけが有罪になり、艶子は無罪に。豊田商會は資金繰りに窮して倒産寸前。銀行は、豊田式織機(鷺田良希が社長)という会社を作り、佐吉の特許をすべて譲渡するのを条件にして借財を肩代わりする計画を出してきた。いったんは拒否したが、他に術がなく受け入れた。

明治40年、新会社豊田式織機が設立され、佐吉は常務になった。久八と別れた艶子は鷺田の愛人になった。

明治41年、豊田式織機は、社長の鷺田と佐吉が対立し、のっぴきならぬ状況に。

明治42年。佐吉は、自動杼換(ひがえ)装置という画期的な発明に成功した。

鷺田にとり、佐吉は卵を産み終わった鶏だった。明治43年5月、河正旅館で急きょ役員会を開き、佐吉を辞任に追い込んだ。その後も「豊田式織機」という社名を使った。佐吉は失意のうちに米国視察に行った。

艶子は鷺田に遺言状を書かせた。鷺田を早死にさせて、豊田式織機の株式および河正旅館を相続し、その経営者に躍り上がった。若きツバメ大澄賢次郎と再婚して、賢次郎を豊田式織機の社長にした。帰国した佐吉は再起を目指す。だが周囲は冷たく、苦心惨憺の末に名古屋市の栄生で織布工場を造った。

大正2年、佐吉は三井物産の児玉一造と出会う。佐吉は織布に加えて、紡績も行う工場建設を目指すが、それは投資が要り危険な賭だった。それを児玉は支援した。

車夫になっていた久八は、河正旅館の女将になった艶子と偶然再開し、復讐を誓う。久八は艶子に怪文書を送り、賢次郎が若い娘と深い仲になっていることを伝える。艶子は浮気現場を押さえ修羅場に。艶子は賢次郎を社長から解任して自らが豊田式織機を経営する。

大正4年、佐吉の娘愛子は児玉一造の弟利三郎と結婚する。利三郎は養子になり豊田家に入る。第1次世界大戦のおかげで需要が拡大し、当初採算が危ぶまれていた紡績工場が利益を出す。狂乱物価になり、街には成り金が溢れる。

大正7年、佐吉の工場は個人営業だったが、法人化して豊田紡織を設立。

佐吉は大正8年、上海で紡織工場を造る計画を立てる。だが、豊田家内では反対意見が多くてまとまらない。そこで佐吉は「障子を開けてみよ。外は広いぞ」と言い切って進出を決める。

佐吉は大正9年、上海で工場を造る。そこに戦後の大恐慌がやってくる。利三郎は在庫を売却して乗り切る。だが、在庫を抱えた兼三郎は経営危機に陥り自殺する。艶子は女将の地位を取り戻そうと河正旅館を再建するが、またも放火される。

佐吉は大正11年、脳卒中に襲われる。「このままでは死んでも死に切れぬ」とほぞを噛む佐吉を支えたのは喜一郎だった。喜一郎は、自動織機の発明を引き継ぐ。

艶子が経営する豊田式織機は大正12年、、特許違反を理由に佐吉を訴え、佐吉が敗訴してしまう。そこで母ゑいが死去。児玉は特許紛争の仲裁役を買って出る。

豊田式織機は大正13年、経営危機を迎え、児玉によって艶子は退陣させられる。新経営陣の元で佐吉に対する訴訟を取り下げる。伊吉が死去。自動織機の完成が近づくが、佐吉は2回目の脳卒中で倒れてしまう。喜一郎は発明を完成させ、特許出願を成し遂げる。

大正14年、G型自動織機の特許が登録される。

昭和5年、巨星墜つ。最期の言葉は「わしは織機の発明を通じてお国に貢献した。喜一郎、お前は自動車をやれ」だった。