「日蓮宗」と本書

本に出てくる妙立寺

北路透は、このように想いを込めて日蓮宗のことを書いていますが、実は周囲に信者がいません。どなたか日蓮宗の方をご紹介下さい。
日蓮宗の方々のご支援をお願いします。なにとぞ、お願いします。

本書で語り部を務めてくれるのは、佐吉の実母ゑいである。夫婦とも熱心な日蓮宗の信者だったが、特にゑいはとっぷりと浸かっていた。生きることは信仰と一つになっていた。

はしか

本書では、信仰に生きる母「ゑい」が準主役のように登場してくる。冒頭に紹介されるのは、幼い佐吉がはしかに罹るシーンだ。

それは、明治2年5月のことだった。まだ3歳の佐吉が熱を出した。
最初の女児をハシカで失ったゑいである。もしやハシカではと疑い、すぐ医者に往診を依頼した。
医者は奥歯(おくば)のあたりに斑点(はんてん)ができているのを見つけ
「ハシカです」
と診断した。

ゑいは、すぐ妙立寺の御前様(住職)にご祈祷をお願いした。日蓮宗では、住職のことを「御前様」とか「お上人(しょうにん)様」と呼ぶ。住職はすぐ飛んできて、白い袈裟(けさ)を着て、豊田家で病気平癒(へいゆ)の加持祈祷(かじきとう)をして下さった。この日蓮上人のお言葉は、ゑいの心の拠り所だった。

ゑいには信念があった。それは仏様のご加護(かご)だった。ゑいは邪念を払いのけるように読経を続けた。和尚も毎日のように来て、ご祈祷をして下さった。

佐吉の症状は、ほぼ1週間で改善に向かった。徐々に元気を取り戻し、食事もできるようになった。ようやく立てるようになった日、佐吉は、ゑいに抱き付いた。ゑいは佐吉を抱きしめ、頬に接吻(せっぷん)した。
ゑいは住職に頭を下げた。そして佐吉に向かって言った。
「さきっちゃ、仏様は何時だって助けて下さる。だから信仰をするのだよ」
佐吉は、もちろん何のことだかわからないが、なおも言った。
「さきっちゃ、なむみょうほうれんげきょう、といってごらん」
佐吉は、言われた通りに言った。
「なむみょうほうれんげきょう」
ゑいは、佐吉を抱きしめて涙を流した。涙、涙、涙であった。

夫を支える

夫伊吉は、不況で大工の仕事がうまくいかない時期があった。弟子たちに暇を出すか出さないか、迷いの振り子だった。その際も、ゑいは信仰の信念から、夫を励ました。

伊吉の大工の仕事は不振を極めた。
ゑいの機織りの仕事は、くたくたになるだけで大した収入にならなかった。
困ったのは伊吉の元で働いている弟子たちの扱いだった。
弟子が五人ほどいたので給料を払う必要があったが、実際のところそんな余裕がなかった。
(暇を出して辞めてもらおうか?)
(いいや、そんなことはできない)
(でも、払えなくなったらどうするのけ?)
伊吉はさんざん悩み苦しみ、迷いの振り子が止まらなかった。キリキリと胃が痛み、まるで胃袋を掴(つか)み絞られるようだった。伊吉は、逡巡(しゅんじゅん)した末にゑいに相談した。ゑいの答えはハッキリしていた。
「辞めてもらうぐらいなら、潰れた方がマシじゃ」
というのである。資金繰りは伊吉が全部やっていたので、ゑいは経営状態まで知っていなかった。だが、ゑいには信仰があった。
「御前様(住職)がいつもおっしゃっているでしょ。『世の中の多くの人の為に、またお国の為にと言う考えで一生懸命に働いてゆけば、食う物も着る物も自然とついて来る』と。私もそう思うのです。だって、そうでなければ、世の中の方がおかしいじゃん」

この一言のおかげで、伊吉は迷いが吹っ切れた。

ゑいの悩み苦しみ

ゑいは、人に言えない悩みや苦しみがあった。佐吉のことを悪く言い触らす輩がいて、その輩を憎む心を抑え切れなかった。そんな際には妙立寺の住職に悩みをぶちまけた。

佐吉のことを悪く言う「おのぶ」に対する憎しみは、ゑいの心から一瞬たりとも消えることはなかった。そんな自分が嫌で、住職に心を打ち明けたのである。
住職は、こう諭してくれた。
「我々は一生懸命に頑張っても、必ずしも自分が望んでいる結果にならないときがあります。その原因のひとつに私たちは日々の生活のなかで、大なり小なり、知らず知らずのうちに悪業(罪)を重ねてしまっているからなのです。その悪業(罪)を神仏に懺悔し、祈りを捧げることにより、誰でも思い悩んだ時に解決の道ができ、危機の時に乗り越える力が湧きあがります。そして、神仏のご加護によって日々幸せを感じながら生活することができるのです。神仏に祈り願うことで、必ず明るい道が開けます。自分の為、人の為に祈り、皆で明るい道を切り開いていきましょう」
ゑいは、住職から「懺悔文(さんげもん)」を教えてもらった。
ちなみに、「懺悔」と書いてサンゲと読む。最近ではザンゲと読む方が一般的であるが、これはキリスト教でいう、罪を告白して悔い改めて神の赦しを請う行為をいうのであって、仏教では本来濁らないでサンゲという。
「夫(そ)れ懺悔(さんげ)とは治病(じびょう)の妙薬(みょうやく)、開運(かいうん)の秘法(ひほう)なり。若(も)し難病(なんびょう)を平癒(へいゆ)し、悪運(あくうん)を除(のぞ)かんと欲(ほっ)せばすべからく懺悔すべし。因果(いんが)のことわりは厳正(げんせい)にして犯(おか)し難(がた)し。微罪(びざい)も猶(なお)、悪報(あくほう)をまぬがれず。況(いわん)や不孝(ふこう)、不義(ふぎ)、不正(ふせい)、不貞(ふてい)、不倫(ふりん)、背徳(はいとく)、忘恩(ぼうおん)の大罪(だいざい)に於(お)いておや。積(つも)りて難病の因(いん)となり、あつまりて厄災(やくさい)の縁(えん)となる」
ゑいは、この「懺悔文」を口ずさみながら反芻(はんすう)した。
ゑいは、就寝前にも再び唱えるようにした。

失敗して帰ってきた若き佐吉を励ます

佐吉は25歳の頃に上京して、発明したばかりの手動の織機を売り出した。だが、すぐ行き詰まってしまって帰郷した。おまけに脚気病にも罹ってしまった。

(これじゃ、合わせる顔がねえ)
木枯らしに吹かれながら、佐吉は肩を落として歩き始めた。とぼとぼ歩きながら、色々な人の顔が浮かんだ。
まず浮かんだのは父伊吉だった。伊吉はカンカンになって怒っていた。佐吉を睨(にら)み付け、鼻孔(びこう)が膨らみ、口を一文字にしっかり閉じて怖そうだった。
「だから、言っただろ。男なのになぜ織機に関わっているのだ。いい加減にそんなことは止めろ。お前は大工の棟梁(とうりょう)の息子だ。早く修業に戻れ! まともに働け。働かざる者食うべからずだ」
その声は、耳にタコができるほど聞かされた。
佐吉には、返す言葉もなかった。
佐吉は、家に着いた。だが玄関から入ろうとしなかった。勝手口からそおっと中を覗いた。母ゑいがそこにいる気がしたからだ。案の定、ゑいは台所に立っていた。食事の後片付けをしていた。
「おっかちゃ」
佐吉は声を掛けた。
ゑいはビクッとした。声に驚いて勝手口を見た。そこに立っていたのは佐吉だった。佐吉は面目なさそうに唇の両端が下がり、視線も下がり、まゆも寄っていた。
佐吉を見つけたゑいは、満面の笑みを浮かべた。
「お帰り。よう帰ったね。待ってたよ」
佐吉は
「おっかちゃ、ごめんな。やっぱり仕事はうまくいかなかった」
と目を落とした。だが、ゑいは頭を振った。
「いいや、そんなこという必要はねえ。お前は立派にやっている。わしはわかっている」
佐吉は、頭を垂れてつぶやいた。
「でも、おとっちゃが…」
「おとっちゃのことか、わしからようゆうちゃるから心配せんでもええ」
ゑいは佐吉に向かって
「お腹空いたんだろ。こっちで食べっせい」
と台所に連れて行った。平吉と佐助も付いていった。
ゑいは、佐吉にご飯をよそいながら言った。
「さきっちゃ、大丈夫だ。世の中の多くの人の為に、またお国の為にという考えで、いっしょうけんめいに働いてゆけば、食う物も着る物も自然とついて来るんじゃ。今はきびしいかもしれねえが、きっと良くなるので大丈夫じゃ。神様仏様は、そのように世の中を作られたのじゃ。御前様(住職)はいつも、そうおっしゃっている」

母の手紙

佐吉は半田乙川の地で、蒸気で動く力織機の発明に成功した。成功を伝える電報を受け取ったゑいは、佐吉に手紙を書いた。

「佐吉へ しょっきのしうんてんがせいこうしたとのこと、おめでとう。じょうきでうごく織機とは、すごいと思ふ。そんな織機ができたら、よろこぶ人がどんなに多いことか。日本のためになるおしごとだと思ふと、私もうれしい。お前たちが頑張っていてくれて、私も嬉しい。はやくその織機をみたい」
ゑいは江戸時代後期の弘化3年(1846年)の生まれである。難しい漢字は書けなかった。

息子佐助の出征

三男の佐助は、日露戦争に出征した。ゑいは、息子の無事をひたすら祈り続けた。だが、心労が重なって、遂に自身が病に倒れてしまった。

新聞は連日のように勇ましい記事を書き立てた。
(この戦いで、佐助は銃を持って参加している)
そう思うと、ゑいは背筋が寒くなり気持ちが悪くなってしまった。
ゑいは、いつものようにお寺に日参して勤行(ごんぎょう)を済ませて立ち上がった。その時である。急にめまいがして倒れ込んでしまった。意識が朦朧(もうろう)としてきて、動けなくなった。
異変に気付いた住職は、ゑいに駆け寄った。住職は、声を掛けた。
「ゑいさん、大丈夫け? 大丈夫け?」
ゑいの返事はなかった。住職は小僧を呼び、医者を呼びに行かせた。
住職は、ゑいを動かさないように勉めた。このことが結果として良かった。
医院は幸い近くにあり、すぐ駆け付けてくれた。医師はゑいの脈を測った。そして難しい顔をして言った。
「脳卒中じゃ」

敗訴

佐吉は、豊田式織機(設立に関与したが、辞任に追い込まれた会社。その後も「豊田式」という名前を使い続けた憎むべき相手)から特許違反で訴えられた。その訴訟で、佐吉は敗訴した。「敗訴」の報道を知った時のシーンである。

判決は、豊田家にとって時機が悪かった。ゑいの体調が最悪だったのと重なった。
裁判については、伊吉もゑいも、何も聞かされていなかった。
伊吉はいつものように朝6時に新聞を手にしたが、ページをめくって思わず
「エッ」
という声が出てしまった。そのまま身体が凍りつきそうなぐらいの衝撃だった。
「マサカ。そんなこと」
伊吉は思わず天を仰いで嘆息した。そして新聞を持って、ゑいが寝ている布団の所に行った。
「おい、見てみろ」
ゑいは、新聞を手にした。
「ハア?」
ゑいも驚いた。思わず呼吸がしばらく止まってしまったぐらいだ。
ゑいは脳卒中の後遺症で右半身が不自由になっていたが、やっとの思いで上半身を起こし、改めて老眼鏡を出して記事を読んだ。
ゑいの眼に涙が溢れてきた。佐吉の心情を思うと
(せっかくここまできただに)
無念で、胸をかきむしりたいほど悔しかった。
伊吉は、ゑいの身体を心配して
「もう横になれよ」
と、言った。ゑいは横になったが、涙が溢れ落ちた。
伊吉は大工仕事で出掛けていった。一人になったゑいは、横になりながら読経をした。その声はか細かったが、何時までも続いた。
佐吉の懊悩(おうのう)ぶりはひとかたならず、すぐ山口村に浅子と二人でやってきた。訴訟の一部始終を報告するためだった。
佐吉は、両親の前で悔し泣きした。子供のように泣いた。こんなことは、かつてなかった。聴き終わると、ゑいは佐吉の手を取った。
「大丈夫だ。仏様を信じて生きなさい」

ゑいの死

ゑいは、亡くなった。完全無欠のG型自動織機が完成する間近のことだった。それを見せてあげられなかったのが何より残念だった。

飾られた遺影は、お地蔵のような優しい笑顔だった。額に三本横にくっきりと皺があり、目尻にも皺があった。ほうれい線が末広がりで伸びていた。温かく包み込むような笑顔だった。

佐吉の死

佐吉は昭和5年に亡くなった。その場面だ。

その頃、佐吉は毎晩のように母ゑいの夢を見た。浅子に
「昨夜、おっかちゃが部屋に入ってきただろ。そこに座って、じっとこちらを見ていただろう。わしもおっかちゃに声を掛けたのだが、ニッコリこちらを見ているだけで答えてくれなかった」
浅子は、戸惑いを覚えた。一緒に寝ていたので、誰かが入ってきたら浅子が気が付かないはずがなかった。だが、浅子はうなずいて
「そうねえ、お母さんがいらしたのかも…」
佐吉はやっぱりそうかとうなずいた。
佐吉は昭和5年10月26日、急性肺炎を併発し、急激に発熱した。熱は39度3分、脈拍116を数えた。咳が頻発して、苦しそうだった。28日には小康を得たが、食事も喉を通らず衰微(すいび)した。29日は意識もなくなり、眠り続けた。10月30日の払暁(ふつぎょう)から症状が悪化した。三浦謹之助博士ら医師団の手当も虚しく亡くなった。30日の午前11時41分だった。
亡くなった場所は、療養していた覚王山(現名古屋市千種区月ケ丘1丁目67番の1)の別荘だった。その別荘は鬱蒼(うっそう)とした森の中にあった。霜降(そうこう)の候で、紅葉が綺麗だった。
最期の言葉は
「おっかちゃ…」
だった。