豊田佐吉ゆかりの地を歩く

「小説 やらまいか」の舞台となった場所を北路透が解説します。
やらまいかの舞台を歩く北路透

朝日町

朝日町久八おカネを持ち逃げして佐吉を窮地に陥れた
伊藤久八

佐吉は明治27年、糸繰返機(かせくりき)を事業化する店を開いた。「豊田代理店 伊藤商店」という屋号だった。だが、共同で事業を興した伊藤久八にオカネを持ち逃げされた。佐吉は半田乙川にいたので住んでいなかった。

宝町

宝町 テレビ塔浅子夫佐吉を男にしたいと奮闘した糟糠の妻
浅子

伊藤久八にオカネを持ち逃げされた佐吉は、裁判所で敗訴し窮地に追い込まれた。その佐吉を助けようと浅子が押し掛けてきた。佐吉と浅子は夫婦になり、再起を目指して、明治29年、宝町の地(テレビ塔付近)で「豊田商店」を創業した。経営能力がなく失敗を重ねた佐吉だったが、後妻浅子を得て人生が拓ける。浅子は懸命に働いて佐吉を助け、機屋の女将さんとして工場を切り盛りして豊田の基礎を築く。また、服部兼三郎という繊維商人と出会い、その支援を受けることで借金を返済した。ここが佐吉の事業家としての第一歩であり、豊田財閥の発祥の地になった。

富沢町

富澤町 料亭花月石川藤八服部兼三郎
佐吉といつも呑み明かしていた
石川藤八(左) 服部兼三郎

料亭花月(かげつ)は、佐吉、兼三郎、藤八の三人が月に二度も三度も、呑む店だった。お酌をする女性はおらず、天下国家を論じた。ちなみに花月を経営していた杉野直一(なおいち)は、河村たかし名古屋市長の母の父にあたる。

武平町

武平町藤野亀之助佐吉を世に出した男
藤野亀之助

豊田商店は明治30年、この地に工場を建てた。織機を作りながら、自らも織布をした。佐吉の織機が有名になると、井上馨とか大隈重信などの有力者が視察に来た。おかげで一躍時の人になった。

宮町

宮町石田退三若い頃、服部兼三郎の秘書だった
石田退三

兼三郎は、宮町に店を構えていた。兼三郎の秘書だった石田退三は大正4年、佐吉を初めて見た。

「ある日、皆が忙しく立ち働いている店先へ、古ぼけた小さな袋を手首にかけ、もそっとした恰好のおっさんが一人はいってきた。物もいわず、だれにも挨拶せず、黙ってわたくしらの座っている前の椅子に腰をおろした。店の出入りや街から流れ込んでくる喧噪を知らぬ気に、椅子によりかかったまま、敷島(煙草)をふかして、何事かをじっと考え続けている。年齢のほどは五十歳前後で、職業のほどもむろんつかみどころがない。なんにしても一種異様な人物である。

そこへ、外から帰ってきたのか、奥から出てきたのか、しばらくたって服部社長が、ヤアと一声かけて現れた。その人はちょっとしたお辞儀も返さない。
 『いよう、今日もまたお金ですかい』
 『うん、ほかに用事などない』
 『いかほど』
 『今日はちと大きいが。25万円ほど欲しい』

このようなやりとりがあって、その日は25万円借りていった。現代では数億円に匹敵するだろう。二人のやりとりに、私は度肝を抜かれた」

袋町

袋町西川秋次自動車事業に反対する幹部を集めて、喜一郎を激励した大番頭
西川秋次

錦三丁目に名古屋ガーデンパレスがあるが、道路を隔てて東北側のブロック(三丁目21番地)に料亭弥生があった。豊田家は重要事項を話し合う時にそこをよく使っていた。

「障子を開けてみよ。外は広いぞ」という名言はそこで発せられた。

大正8年末、佐吉は上海工場を造る目標を立てたが、社内からは強い反対があったので話し合いの場が設けられた。出席したのは、佐吉、浅子、平吉、佐助、児玉一造、藤野亀之助、利三郎、西川秋次のほか、古参幹部だった。

佐吉は目標を述べたが、危険性を指摘する向きが多かった。佐吉はすくっと立ち上がり、障子をパシッと開け放ち「障子を開けてみよ。外は広いぞ」と言った。

煙草の火を消して「ああ、もう」と言いながら、立ち上がったのは平吉だった。

「ええい、どうせ兄ちゃの作った会社だ。兄ちゃがそこまで言うなら、仕方ない。みんなもそれで承知しろ」。こうして上海への進出が最終決定された。

弥生は、その後も舞台になった。喜一郎は自動車事業に邁進したが、利三郎は反対した。二人の対立を眺めていたのが中国責任者の西川秋次だ。秋次は帰国するなり、弥生に幹部を集めて言い切った。

「大大将(佐吉)の遺志を継ぐのに何の遠慮が要りましょう。喜一郎さん、お金ならこの不肖西川がいくらでも調達してみせます。大大将の経歴に恥じない仕事をして下さい」

秋次は、豊田本社の意向を無視して上海から巨額の資金を喜一郎に送り続けた。この支援がなければ、自動車開発はできなかった。

小田原町

小田原町鷺田艶子佐吉を騙し討ちにして辞任に追い込んだ
鷲田良希 艶子

艶子が女将だった河正旅館は、料亭河文の近辺だった。佐吉にとっては因縁の場所だった。
明治39年、豊田式織機株式会社の設立総会が開かれた。
その4年後の明治43年4月5日に急きょ役員会が開かれた。不審に思いながら佐吉が行ってみると、鷺田社長のほか大阪派の人が出席していたが、名古屋派の人はおらず変な雰囲気だった。鷺田社長は、腕を組みながら気難しい顔で口を開いた。

「会社の業績が上がらんは、発明や試験のため、社員の気がそっちゃばっかりへ奪われとる結果やって思う。ついては豊田常務、気の毒やけど、君には辞職してもらいたいんや」

「なに言ってるだ! 発起人らは当初、国家的事業だから、営業は我々が引き受ける。君の発明を援助したいと言っていたではねえか。しかるに、何の予告もなしに『辞職してもらいたい』とは何事じゃ」

佐吉怒っては席を蹴り、ドアをバシーンと音を立てて退出した。
これが長い不遇の始まりだった。

島崎町

島崎町児玉一造佐吉の経営の指南役として工場を度々訪れた
児玉一造

豊田商會は明治39年、島崎町で工場を建てた。名古屋ルーセントタワーから東へ100メートルの近辺。ここで多くの世界的発明がなされた。佐吉の研究室は、後に豊田式織機株式会社の本社屋としても使用された。この建物は現在、産業技術記念館で保存されている。

栄生町

栄生町利三郎豊田紡織の経営を任された
利三郎

城山三郎が『創意に生きる―中京財界史』の中で次のように描写している。

「大正元年の秋、名古屋の町を西に出はずれた愛知郡中村大字栄生の三千坪ばかりの土地にちょっとした工場の建設が進められていた。その工事現場へ、ほとんど日曜ごとにやってくる一人の中学生があった。秀でた眉、しまった口元からは負けぬ気の性格がひらめいていた」
「彼は明倫中学校の四年生。上級学校への進学が目の前に迫っていた。しかし進学が許されるかどうか、まだ分かっていなかった」
「彼の父親が一年九カ月もかかって、資金を集め歩き、その苦心の結晶が、工場の建設となって現れた時、誰よりも喜んだのは少年であった。(久しい父の不振! しかし、この工場さえうまく行ったなら)」

周囲が不安そうに見守る中、栄生の豊田自動織布工場は、大正元年に完成した。これが独立自営の豊田自動織布工場の始まりだ。佐吉は47歳。工場は、再起をかけた城だった。