北路透プロフィール

北路透の来た路(みち)
「お母ちゃん子だった私」

本書の執筆は、実は私の母が平成26年8月5日に亡くなったことがきっかけでした。「おっかさんは何時でもいるもの」と思っていたが、いざ亡くなってみると喪失感は半端ではなかった。

実は私は子供の頃、お母ちゃん子でした。いつでもお母ちゃんにへっついていたそうです。姿が見えなくなると大泣きしたとか。

母はある宗教を信じていたので「どんな宗教でも信仰している人を尊敬する」と言っていました。残念ながら私は信仰の世界に入りませんでした。いや、入れませんでしたが、それでも信仰している人を見ると、今でも羨ましい。

佐吉の母「ゑい」は日蓮宗に帰依していました。そこで佐吉の母と、私の母が二重写しになり、「ゑい」を語り部にした本を書こうと着想しました。

佐吉の人格形成において大きな影響を与えたのは、母親ゑいでした。ゑいは、どんなことがあっても息子を認めて励ました。

「小説やらまいか 豊田佐吉傳」には、ゑいが佐吉を励ますシーンがあります。青年時代の佐吉は、上京して織機を事業化しました。しかし、すぐ行き詰まって帰郷しました。おまけに脚気病に罹りました。そこを紹介しましょう。

(これじゃ、合わせる顔がねえ)

木枯らしに吹かれながら、佐吉は肩を落として歩き始めた。とぼとぼ歩きながら、色々な人の顔が浮かんだ。

まず浮かんだのは父伊吉だった。伊吉はカンカンになって怒っていた。佐吉を睨(にら)み付け、鼻孔(びこう)が膨らみ、口を一文字にしっかり閉じて怖そうだった。

「だから、言っただろ。男なのになぜ織機に関わっているのだ。いい加減にそんなことは止めろ。お前は大工の棟梁(とうりょう)の息子だ。早く修業に戻れ! まともに働け。働かざる者食うべからずだ」

その声は、耳にタコができるほど聞かされた。

佐吉は、家に着いた。だが玄関から入ろうとしなかった。勝手口からそおっと中を覗いた。母ゑいがそこにいる気がしたからだ。案の定、ゑいは台所に立ち、食事の後片付けをしていた。

「おっかちゃ」

ゑいはビクッとした。声に驚いて勝手口を見ると、そこに立っていたのは佐吉だった。佐吉は面目なさそうに唇の両端が下がり、視線も下がり、まゆも寄っていた。

佐吉を見つけたゑいは、満面の笑みを浮かべた。身長が4尺8寸弱(145センチ)しかない母親が、5尺4寸(164センチ)の息子を抱き締めた。

「お帰り。よう帰ったね。待ってたよ」

佐吉は

「おっかちゃ、ごめんな。やっぱり仕事はうまくいかなかった」

と目を落とした。だが、ゑいは頭を振った。

「いいや、そんなこという必要はねえ。お前は立派にやっている。わしはわかっている」

ゑいは大きくうなずいて、息子を肯定した。

「お腹空いたんだろ。こっちで食べっせい」

と台所に連れて行った。ゑいは、佐吉にご飯をよそいながら言った。

「さきっちゃ、大丈夫だ。世の中の多くの人の為に、またお国の為にという考えで、いっしょうけんめいに働いてゆけば、食う物も着る物も自然とついて来るんじゃ。今はきびしいかもしれねえが、きっと良くなるので大丈夫じゃ。神様仏様は、そのように世の中を作られたのじゃ。御前様(住職)はいつも、そうおっしゃっている」

私は、「おしん」の泉ピン子をイメージしながら、このシーンを描いています。

このような愛情に育まれ、佐吉は自信を持って生き抜くことができました。本書を通じて、母親の偉大さというものを改めて感じて頂ければ幸いです。日本中のお母さんがたは、自らの役割の大事さを知って、立派な子供を育てて欲しい。

申し遅れましたが、「きたみち とおる」と申します。「いつか来た路」とか言うように歴史は繰り返しますよね。そこからきた名前です。

本業は経営コンサルタントで、(株)北見式賃金研究所という社会保険労務士事務所を経営しています。昭和34年生まれ。名古屋市在住。

趣味は、名古屋の歴史研究です。好きなのは日本酒です。呑みながら歴史談議するのが一番の好物です。