「名古屋の旧町名」を知る

本書は、名古屋の旧町名にこだわって記述している。お読みいただくと、現代の名古屋人にはピンと来ない地名がポンポン出てくる。いろいろな町名を挙げながら解説する。

なお筆者の北路透(北見昌朗)は、名古屋城天守閣を木造復元し、旧町名を復活する会を主宰している。そのホームページはこれだ。
http://www.fukkatu-nagoya.com/

定期的に勉強会を開いているので、ご参加いただくとありがたい。

古地図は、次のようにお分けしている。
http://www.fukkatu-nagoya.com/present/ko_chizu.html

蒲焼町

「蒲焼町」とはまた情緒ある町名だと思うが、実は錦通のことである。「小説やらまいか 豊田佐吉傳」では、このように出てくる。佐吉は共同事業者の伊藤久八にオカネを持ち逃げされて、破産宣告を受けて、多額の負債を負った。困り果てた佐吉を心配して浅子が押し掛けてくるシーンだ。

佐吉が名古屋の店に行って、1週間後のことである。お昼頃、表の扉を叩く者がいた。
(また借金取りかな)
佐吉は隙間から外の様子を伺いながら、恐る恐る扉を開けた。すると、そこには浅子が立っていた。佐吉はたまげた。
(エッ!、どうかしたのけ? 何かあったのけ?)
浅子は問いに答えず、はにかんだ。そして、うつ向いた。顔はポッと赤くなり、うなじまで真っ赤だ。
「まあ、中に入って下さい」
と佐吉は手招きした。浅子は店内に入ったが、腰掛けてもらう椅子がなかった。什器(じゅうき)備品はすべて差し押さえられて持ち去られていたからだ。佐吉は恥ずかしそうに
「そら見ての通り、何もねえところで…」
と座敷の上に座ることを勧めた。佐吉は眼をパチクリしながら問うた。
「あのー、何か、あったのけ?」
浅子はうつ向いて、はにかみながら答えた。
「豊田さんが困っていらっしゃるご様子で、もういてもたってもいられずに飛び出してきてしまいました。もちろん石川さんのご了解を得てのことです…」
佐吉はたまげた。浅子がそこまで自分のことを好きなのだと初めて知った。もちろん佐吉も浅子に対して、好きという感情はあった。
(こんな女が妻であってくれれば…)
という気持ちはあった。だが、自分は一度、結婚に失敗した人間である。だから結婚に対して自信がなかった。ところが浅子が自分の方から飛び込んできてくれたのだ。
「よく、ここがわかりましたね」
佐吉は浅子に問いかけた。浅子は手に地図を持っていた。その地図は藤八がくれたものだという。我が子が迷わないようにと親が書いたような書きつけで、地図まで描いてあった。
「私、方向音痴なんです。だから迷って、迷って、途中で人に訊いたのですが、それでもわからず、二度も交番に入りました」
「へえ、そりゃ大変でしたね。ところで名古屋駅には何時に着いたのけ?」
「朝10時でした」
「ということは、朝10時から、今まで歩いていきたのけ? もう2時間も…」
浅子は恥ずかしそうに笑って、えくぼができた。
「もう方向音痴なので…」
二人は笑った。二人とも、こうして会えたことが嬉しくてならなかった。
「でも、途中で蒲焼町(かばやきちょう。現名古屋市中区錦通)という所を通ったら、鰻を焼いている良い臭いがして…」
浅子は実は先ほどからお腹が鳴っていていた。それも何回もだ。浅子は恥ずかしそうにお腹をおさえた。佐吉はそれを察して
「では食事に行きましょうか」
と腰を上げた。佐吉は、「いば勝」という鰻屋に連れて行った。そこは蒲焼町四丁目(現サンシャイン栄の場所)にあった小さな店だった。「ひつまぶし」という料理が売り物だった。店の店主は、食べ方を解説した。
「一膳目はそのまま、二膳目は薬味をのせて、三膳目は煎茶を掛けてお茶漬けにして食べて下さい」
お櫃(ひつ)に入ったご飯に、細かく刻まれた鰻が入っていた。備長炭でじっくり火を通して、香ばしい香りを放つ鰻は、パリッとした食感だった。こくのある甘辛い特性タレだった。

宝町

宝町といっても、ピンと来る名古屋人は今では少ないと思うが、実はテレビ塔の所である。「小説やらまいか 豊田佐吉傳」では、こんな感じで出てくる。

佐吉と浅子は、同棲開始と共に、店兼住居も移転した。新しい場所は、宝町(現名古屋市中区錦3丁目6番地。テレビ塔のブロックの南側)だった。それまでは朝日町(現名古屋市中区錦三丁目6番地。現興和本社)だったから、徒歩でほんの数分東に行っただけだった。新しい所は1階が製品在庫を置くための土間、2階が住居だった。屋号も「豊田商店」に変更した。
この地が、後に大を成す豊田の創業の地である。織機の製造販売を始めたのは、まさにこの地である。

富沢町

「七間町」の交差点と言えば、錦三丁目のど真ん中だから、名古屋人なら知らぬ者はいない。その交差点の北側を「富沢町」といった。何のことはない。今風に言えば錦三丁目である。佐吉は言ってみれば「キンサンの男」だったのだ。

佐吉はおかげさまで人に恵まれました。藤八さんと兼三郎さんと佐吉は、三人で集まってよく呑むようになりました。
三人でよく呑んでいたのは、料亭花月(かげつ)だった。花月は富沢町四丁目で、現名古屋市中区錦三丁目21番地(UFJ名古屋営業部のブロックの東側)である。広小路七間町の交差点を北へほんの数歩、その西側だった。
明治時代の酒の呑み方は、まず料亭に着いたら風呂に入り、それから杯を酌み交わしながら呑むのである。二次会、三次会という感じで店を回ることはしなかった。
花月は料理が自慢で、夏は鮎を売り物にしていた。冬になるとカモだった。
その日は鮎などの川魚だった。店主が長良川で釣ってきた天然の鮎・岩魚(いわな)などが主で、特に鮎の塩焼きが美味だった。ほうれん草やトマトなど夏料理も味わえた。
花月の亭主は杉野直一(なおいち)といった。杉野は板前出身で、店主になってからも自分で包丁を握っていた。頭は坊主でピカピカと光っていた。日頃から鍛えているようで筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)としていた。もう65歳になっているが、そうはみえなかった。杉野は料理を自ら解説しながら出すので、顧客はその蘊蓄(うんちく)を聴かないといけなかった。
なお、この杉野直一は、河村たかし名古屋市長の祖父(母の父)にあたる。

伝馬町

「明治時代の名古屋では、伝馬町は銀行が軒を並べるウオールストリートだった」だと聞くと、どこを思い浮かべるか? 熱田神宮の近くに「伝馬町」という駅があるので、そちらではなかろうか? いいや、全然違う。実は桜通の一本南側の通のことだ。ここは美濃街道といって由緒ある通である。

銀行は明治20年代になってから設立ラッシュが起きて、全国各地で雨後の筍のようにできた。当時の名古屋でもそうだった。
大きなところとしては、名古屋銀行があった。そこは明治15年に設立された。本店は、伝馬町六丁目(現名古屋市中区錦二丁目3番地)に置かれていた。ここは東海銀行(現三菱UFJ銀行に統合)の前身の一つになる。
また、明治29年3月には愛知銀行が設立された。初代の頭取は笹屋(現岡谷鋼機)の岡谷惣助だ。本店は本町通の玉屋町(現名古屋市中区錦三丁目11番地。万兵の場所。御幸ビルの北側のブロック)である。ここも東海銀行の前身の一つになる。
(銀行なんて、敷居が高くて入りにくいわ)
そう思いながら、浅子は店のあった宝町(たからまち)を西に向かって歩き、本町通に達した。南を見ると、開業したばかりの愛知銀行があった。浅子はどこの銀行に入ろうかと迷いながらも北に転じた。すると、そこは江戸時代に尾張藩の高札(こうさつ=掟書きを貼り出す所)が掲げられていた交差点があり、札の辻(ふだのつじ)と呼ばれていた。その札の辻から西側は伝馬町(てんまちょう)という所だった。その名の通り、江戸時代は飛脚が待機していた交通の要所だった。その伝馬町は明治銀行、名古屋銀行、そして東京から出てきた三井銀行などが軒を連ねる銀行街になっていた。
伝馬町は、二頭立ての馬車が行き交った。浅子は馬車にひかれないように、通行人にぶつからないように、ウロチョロしながら周囲を見渡した。そして名古屋銀行の所まで行った時に、門構えが一番立派そうなので、そこに入る決心をした。浅子は入る前に深呼吸をした。髪も直した。手には今売り出している商品のカタログと最近の売り上げを書いた帳面を持っていた。
入ってみると、受付は大きな板でできていた。無垢のケヤキの一枚板だった。受付の横には丸柱があって、これもケヤキだった。天井にはシャンデリアがあった。
浅子は、豪華さに圧倒されながら言葉を発した。
「あのー、ご融資をお願いしたくて参りましたが…」
受付にいた若い小僧に用件を伝えた。すると、小僧は
「融資係は2階です」
と指さした。
浅子は、階段をみしりみしりと音を立てて上っていった。階段には擬宝珠(ぎぼし)が付いていた。
「あのー、ご融資をお願いしたくて参りましたが…」