講談 やらまいか豊田佐吉傳

痛恨事

試作品

完成品



豊田式織機という会社設立の3年後、やはり と言いますか、案の定と言いますか、佐吉が切られることになるのでございます。

豊田式織機は、経営不振に陥りました。

悩む鷺田に対して、愛人艶子は、ささやきます。

「ねえ、豊田さんなんて、まあ要らないのじゃない?」

「ハア?」

「だって特許は会社のものでしょ」

「何いってんねん、特許はもともと豊田はんが発明されたものやろ。それやのに首にできますかいな」

「だから、なんなのよ? あんな人、卵を産み終わった鶏みたいなもんだで、ご用済みよ」

こうして、鷺田は佐吉を解任する決意を固めるのでございます。


明治43年4月5日、突然、緊急役員会が開かれたのでございます。

不審に思いながら佐吉が行ってみると、名古屋派の人はおらず妙な雰囲気でございました。
社長の鷺田が馬面で口火を切りました。

「会社はなんでこ ないにめっちゃ営業不振を続けてんねん?はよ何か手を打たんといかんちゃいまんのか?会社の業績が上がらんは、発明や試験のため、社員の気がそっちゃばっかりへ奪われとる結果やわ。で、ついては豊田常務、まあ気の毒やけど、

君には辞職してもらいたいんや」

「ハア?」

佐吉は、ビックリして鷺田の顔を見ました。

この、あまりといえば、あまりの暴言に、佐吉は怒り出しました。

「なに言ってるだ!発起人らは当初、国家的事業だから、営業は我々が引き受ける。君の「発明を援助したいと言っていたではねえか。しかるに、何の予告もなしに『辞職してもらいたい』とは何事じゃ」


佐吉は席を蹴り、ドアをバシーンと退出したのでございます。

「チクショウ。チクショウ、チクショウ」


佐吉は直ちに辞表を書いたのでございます。

これが。晩年、近親の人に対して「発明人生の一生を誤りたる痛恨事(つうこんじ)じゃった 」と語った大事件だったのでございます。


さて、辞職して行ったのはアメリカでございます。そこで見たのは、織機で、自分のよりも劣る性能を確認し、自信を取り戻したのでございます。

「よし帰国しよう 。一身の恥辱は小事だ。それよりも余生を国家に捧げよう。さあ、やらまいか」という覚悟が沸いてきたのでございます。

佐吉は、その視察から帰ってきた明治44年、栄生で自動織布工場の建設を目指したのでございます。栄生の工場は、もう大手の資本家の力を借りずに建設することを決意した。

しかし、特許無く、工場無く、従業員無く、裸同然の彼を見る世間の目は冷たかった のでございます。

応援してくれたのは、服部兼三郎、藤野亀之助、児玉一造ら、ほんの数人でございました。彼らの惜しみない支援のおかげで、ようやく、遂に 工場が出来上がったのでございます。

栄生の工場で目指したのは、自力で経営する”自力経営 ”でございました。


さあ、ここから世界のトヨタの歴史が始まったのでございます。

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注:●は、扇子を打つ音でございます。