「障子を開けてみよ、外は広いぞ」豊田佐吉翁の名言の数々

豊田佐吉の名言集

北路透が音声で解説!

「いくら儲けたいの、いくら儲けねばならんのと、そんな横着な考えでは人間生きてゆけるものではない」
報徳社に入り二宮尊徳の教えを学んだ伊吉は、口癖のように息子たちにそう言い聞かせた。
「大丈夫だ。世の中の多くの人の為に、またお国の為にと言う考えで一生懸命に働いてゆけば、食う物も着る物も自然とついて来る。御膳様がいつもそうおっしゃっている」
佐吉は、東京で機屋を開業したが失敗して帰郷した。おまけに脚気病に罹っていた。落ち込む佐吉に対して、母ゑいはこう言って励ました。
「このオカネは貸してやるだけだ。ええかい、男は四の五のいらぬことを考える必要はない。志を立てた以上、迷わず一本の太い仕事をすればよい」
佐吉が武平町工場を建てる際に、伊吉は田畑を売って作ったオカネをポンと差し出して言った。
「一日働かざれば、一日食わず」
栄生の工場は、大正元年に完成した。これが独立自営の豊田自動織布工場の始まりだった。佐吉は47歳、浅子は37歳、喜一郎は20歳、愛子は15歳。生涯を通じての正念場で、発明家として、また事業家として生死の分かれ目であった。
「発明発見とか創意工夫の世界は、あくまでも広大無辺で、今まで人間の踏み込んだ地域は九牛の一毛(多くの牛の中の1本の毛)にも達していません。その大きな未開の秘庫は『早く扉を開けてくれ』と、中からいつもわれわれに呼びかけています。しかもその扉を開く鍵は、いつも、どこにも、誰の足下にも転がっています」
大正2年、陸軍大演習が名古屋で行われ陛下が行幸された。佐吉は名古屋離宮(名古屋城)において御前に御召し出された。本丸御殿上洛殿で拝謁を仰いだ際に、陛下から「そのように素晴らしい発明を次々に成し遂げられたご苦労はいかばかりか?」と問われた際にこう答えた。
「障子を開けてみよ、外は広いぞ」
大正8年、佐吉は上海に紡織工場を建てようとしたが、社内は大反対した。その際に障子をパシッと開けて言い放った。
「仕事は人が探してくれるものではなく、自分で身付けるべきものだ。職は人が作ってくれるものではなく、自分自身でこしらえるべきものだ。それがその人にとっての、本当の仕事となり、職業となる。とにかくその心掛けさえあれば、仕事とか職業とかは無限にあるといっていい。いつの時代でも、新しいことは山ほどある」
喜一郎は東大を卒業して帰郷した。「ところで、お前、これからどうするだかね?」と訊かれると、佐吉に「上海紡績工場原動所設計書」と題した書類を渡した。驚いた佐吉は満足気に眺めこう言った。
「わしは他人よりよけいに創造的知能に恵まれているわけではない。すべて努力の結晶だ。世間は、その努力を買ってくれないで『天才だ』と言って片づけてしまう。私には遺憾千万」
大正13年、G型自動織機の原型が完成し、試験運転を開始した。問題点があると改良に改良を重ねた。完成した時、喜一郎は(どこから、こんなふうに発想が次々と浮かんでくるのだろ?)と改めて佐吉の偉さを思った。そう尋ねてみると、佐吉は何を訊くのか?という態度でこう答えた。
「わしの今日あるのは、天の心というものだ。それなら、こちらも社会へ奉仕せにゃいかん道理だ。誠実というその字を見ろ。言うことを成せという言葉なんだよ」
佐吉は、昭和5年にめっきり衰弱し、枕元に来た喜一郎にこう言った。