「二宮尊徳」と本書

左側が社長の鷲山恭彦氏。後ろが専務理事の松本一男氏

北路透は、令和元年10月10日に大日本報徳社を訪問させていただいた。社長の鷲山恭彦氏と、専務理事の松本一男氏が温かく迎え入れて下さった。

お二人は、「小説やらまいか 豊田佐吉傳」を激賞して下さった。それはここに載せた。推薦文はこちら

大日本報徳社様は、掛川にある。

掛川城の敷地内にあるところが歴史を感じさせる。

大講堂は、明治36年公会堂として建てられた。平成21年には国重要文化財に指定された。

二宮尊徳像尊徳翁の像が随所にありますが、像は右脚が前に出ている。これは一歩踏み出そういう意味だそうだ。

「小説やらまいか 豊田佐吉傳」に出てくる尊徳翁がらみの箇所をいくつか紹介する。

二宮尊徳翁の教えを知る

父伊吉は、地元では名工として通っていた。質実剛健(しつじつごうけん)を絵に描いたような人物だった。

伊吉は、不況で仕事が落ち込み苦しんだ時期があった。手持ちぶさたなので、妙立寺の修理工事をやり始めた。まったくの手弁当だった。すると御前様(住職)が感心して、ある方を紹介して下さった。そのシーンだ。

大工の仕事が減って手持ち無沙汰(ぶさた)になった伊吉は、妙立寺の修復工事をするようになった。
住職は、伊吉の奉仕に感謝した。そこである人物を紹介してくれた。それは松島吉平(きちへい)という人だった。住職は
「吉平さんは二宮尊徳翁の教えを学び、この地で指導して下さっている。若いが偉いお方だ。ぜひ知遇(ちぐう)を得るとええ」
と、吉平を賞賛(しょうさん)した。吉平に対して、よほど全幅(ぜんぷく)の信頼を寄せているようだった。
伊吉は、尊徳の教えに興味があった。その報徳思想のことは聞いていた。
住職がそこまで褒(ほ)める松島吉平とは、どんな方なのか会いたくなり出掛けて行くことにした。行った先は、気賀村の細江神社(現浜松市北区細江町気賀、浜名湖の北側)境内(けいだい)に設立された西遠(せいえん)農学社だった。
伊吉が訪問したのは2月下旬で雨水(うすい)の候だった。
「いやあ、あなたが豊田伊吉さんですか。ご評判はかねがねおうかがいしています」
と、ニッコニコである。吉平は、伊吉より10歳ほど若かった。
吉平は、その晩に男の手料理で伊吉をもてなした。質素な食事だったが、菜の花の辛子(からし)和えなどが美味しかった。食事をしながら、西遠農学社の事業目的を説明してくれた。
「至誠(しせい)とは、誠のある生活をすることです。勤労(きんろう)とは、自分の持つ徳を生かして働き、自他を豊かにすることです。分度(ぶんど)とは、自分の徳をわきまえ、節度のある生活をすることです。推譲(すいじょう)とは、分度のある生活をして、余財を蓄え、家族、子孫、社会のために譲ることです。尊徳翁の報徳思想をこの地でも広めたい」
と、伊吉の目を見て語った。
ここで松島吉平という人物を紹介しよう。
吉平は嘉永2年(1849年)、豊田郡中善地(ぜんじ)村(現浜松市東区豊西町)に生まれた。吉平は本名で、後に俳号として「十湖」(じっこ)を用いるようになった。生家は大きな農家だった。吉平は、若い頃から尊徳の信奉者だった。
明治元年に大洪水により天竜川が決壊(けっかい)し、この地方の田畑は水に呑み込まれた。この時松島家は困窮(こんきゅう)する人たちのために蔵にあった米や麦を施した。
伊吉は入門の希望を述べた。その際に
「弟子が独立した際に保証人になって騙され田地を手放した」
「不況で大工の仕事がめっきり減り、弟子に給料もまともに払えない」
と、伏し目(ふしめ)がちに悩みを打ち明けた。すると吉平は握手を求めてきた。
「あなたのような方にご参加頂きたいと思っていました」
と、笑みを浮かべた。そして次のように諭してくれた。
「神に感謝し、祖先に感謝し、父母に感謝し、国家に感謝し、社会に感謝しなさい」
伊吉は、自分の人生観にピッタリの内容だけにいちいちうなずいた。

掛川の大日本報徳社を訪ねる

大日本報徳社は掛川にある。そこを訪ねるシーンだ。

岡田良一郎伊吉は明治17年2月、報徳社を主宰する掛川の良一郎を訪ねた。良一郎は農業も行っていたので、フキノトウを収穫していた。良一郎は着替えて出てくると、昼食をご馳走(ちそう)してくれた。自分で採った春菊とセリの白和(しろあ)えもあり美味しかった。
良一郎は食事中、次のような尊徳の言葉を繰り返して話し、その意味を教えてくれた。
「貧富の違いは、分度(ぶんど)を守るか失うかによる」
「すべての商売は売りて喜び、買いて喜ぶようにすべし。売りて喜び、買いて喜ばざるは、道にあらず」
「道徳を忘れた経済は、罪悪である。経済を忘れた道徳は寝言である」
伊吉はこのような泰斗(たいと)に会って謦咳(けいがい)に接することができて光栄だった。
静岡県では、報徳社が県下にどんどん開設された。湖西地区や湖北地区おいても、石原貞藏や袴田孫兵衛という有力者によって報徳社が作られた。
良一郎の方針により、伊吉の家がある山口村でも報徳社を作ることになった。良一郎は伊吉の人格や大工としての腕を認めるようになっていたので、伊吉に対して
「ぜひお願いしたい」
と責任者に指名した。伊吉は名誉だと感じて張り切った。おかげで参加者は沢山集まった。
伊吉にとって良一郎との出会いはまさに開運であり、ここから人生が好転した。

伊吉のお家再興

伊吉は、弟子の保証人になったおかげで失敗して田地を失った。だが、尊徳の教えを守り、田地を買い戻すことに成功した。そのシーンだ。

報徳社との出会いは伊吉を変えた。良一郎は伊吉にとり大きな支援者になってくれた。
おかげで伊吉は、数年のうちに豊田家を立て直した。いったんは手放した田地田畑を買い戻せたのは明治20年だった。このことは伊吉にとり生涯忘れられない喜びだった。家族で正月に祝賀会さえ開いた。
お節は、料理上手な伊吉が作った。壱の重、弐の重、参の重があり、参の重のレンコン、里芋、ゴボウは畑で作った自家製だった。
その席で伊吉はお節をつつきながら酒を呑み、子供たちに何度も繰り返した。
「いくら儲けたいの、これだけ儲けねばならぬのと、そんな欲張った自分本位の考え方じゃ駄目じゃ。世の中には自分以外に人がいるよ」
「男ちゅうもんは、四の五のいらぬことを考える必要はない。志を立てた以上、迷わず一本の太い仕事をすればよいのじゃ」

伊吉が初めて佐吉を認めた瞬間

伊吉は、報徳社に通い、勉強を続けた。そこでは経営発表が行われていたが、その発表者の一人が佐吉の支援者石川藤八だった。そこで、佐吉の活躍ぶりを初めて耳にして驚くシーンだ。

報徳社は、若手経営者を集めた勉強会を毎月開いていた。若手経営者が自分の経営体験と今後の抱負を話して、先輩諸氏から指導を仰ぐものだった。
その日に経営体験を発表することになったのは藤八だった。藤八は以前から二宮尊徳翁の教えに惹かれていて、本格的に学ぶため参加するようになった。
岡田良一郎は居並ぶ仲間を前にして、藤八のことをこう紹介した。
「石川さんの家は、尾張の知多半島にある乙川村の古い商家だ。その伝統にアグラをかくことなく、織布という新しい事業を興そうとされている。その姿勢が素晴らしい。彼から学ぶことは多い」
そこまで持ち上げられた藤八は、赤面しながら話し出した。
「私はこれから新しい仕事に挑戦したい。それは織布です。機織りはこれまで人力に頼っていましたが、これからは蒸気で動(いご)く動力の時代になります。力(りき)織機という新しい文明の利器の発明に苦労されてた方がみえたので、私はその発明を応援してきました。その発明は完成して、従来になかった新しい織機ができ上がりました。私はその織機を使った織布工場を建設する計画です」
この発表は参加者から大いに関心を持たれて、質問が相次いだ。
「どんな織機なのか?」
「外国製と比べて見劣りしねえのか?」
「生産性は、以前と比べてどれだけ違うのか?」
などと質問ぜめにあった。最後に良一郎自身が質問した。
「ところで、その新しい織機を発明されたのはどなたですか?」
「はい、豊田佐吉さんです」
良一郎はニコニコ顔で激賞した。
伊吉は、我が耳を疑った。先ほどから感心しながら聴き入っていたが、なんとそれは我が子佐吉のことだったとは! 伊吉は何も聞かされていなかったので、佐吉が知多郡の乙川にいることさえ知らなかった。
(まさか!)
伊吉は思わず目を丸くした。驚きのあまり絶句しそうだった。
伊吉は、後からすぐ藤八の元に寄って行った。
「あのう、豊田佐吉とおっしゃいましたが、それは遠江(とおとうみ)の山口村の豊田佐吉ですよね?」
「はい、そう聞いてますが…」
「それはわしの息子です」
「エッ!」
掛川での勉強会が終わると、伊吉は汽車に乗って帰った。その際に藤八も一緒の汽車に乗ったので、伊吉は一部始終を聞くことができた。
伊吉は家に戻ると、すぐゑいに今日あったことを説明した。その際に
「そんな凄げい発明に成功していたなんて知らなかった。なんで、わしに何の説明もしなかったんじゃ。あの子が知多に行っていたなんて知らなかった」
などと抗議の口調であった。それに対して、ゑいは言い返した。
「だって、あんたに言ったら、どうせ怒るだけじゃん。あんたは、佐吉の話も聞いてやろうとしなかったじゃん」
これには伊吉も言い返す言葉もなかった。
そして伊吉は、ようやく得心(とくしん)がいったようにつぶやいた。
「あいつは努力してたんじゃな」
ゑいは、ようやくわかったのけ?と言わんばかりに、伊吉の目を見て言った
「そうよ、佐吉は立派な子よ。しっかり目標を持って生きてるわ。誰が何と言おうと、私は佐吉を信じている」
そう言われた伊吉は、ようやく自分の非を認めたように何度もうなずいた。

報徳社 大講堂大講堂は、500人も入れる広さ。二階から見ると、こんな感じになる。ここで石川藤八が発表する姿を想像して欲しい。聴衆の中には、父伊吉が驚きながら聴き入る姿が…。

工場の建設資金をポンと出した伊吉

佐吉は、蒸気で動く力織機の発明に成功して、織機を造る工場建設を計画した。だが、先立つものがなかった。その話をゑいから聞いた伊吉は、息子のいる名古屋に飛んできた。

新会社「乙川綿布合資会社」は、遂に設立された。
操業開始に向けて、次の課題は肝心の織機を作ることである。それを作るのは、もちろん佐吉の役目だった。佐吉はそのために工場を必要とした。どこに、どんな工場を建築するのか物色した。その建築計画を担当したのは弟の平吉だった。実務的な能力は、佐吉よりも平吉の方が上だった。
「織機を作る工場を建てて欲しいんじゃ」
そう言われた平吉は、太い眉根(まゆね)を寄せながら思わず腕を組んだ。
「ウン、色々問題があるが…」
平吉がまず思ったのは資金面だった。佐吉と浅子は、名古屋銀行に行った。そこで、けんもほろろに追い返された話を平吉も聞いていた。
伊吉は、佐吉と平吉がオカネに困っている様子を聞かされて、ゑいに向かって
「オカネならわしが出したろうか?」
と言い出した。ゑいがハア?という顔をすると
「田んぼを一枚売ろうかと思う」
と言い出した。せっかく買い戻した田を一枚売ってオカネを作るというのである。伊吉はすぐ行動に出て、まとまったオカネを工面した。そして佐吉と平吉の元に突然やってきた。
「これを使え!」
伊吉はいきなり大金の札束を息子たちの前にポンと出した。佐吉と平吉は目をパチクリさせた。
「やるんじゃねえ。貸してやるだけだ。利子を付けて将来ちゃんと返せよ」
佐吉と平吉は、伊吉の突然の振る舞いに驚きながら、頭を下げて礼を言った。すると伊吉はこう言い出した。
「これからの日本は綿業じゃ。動力で動く織機を発明すれば、日本は綿糸や綿布の輸出国に生まれ変わる」
それは佐吉が口癖のように言ってきた台詞(ぜりふ)だった。つい最近まで発明に反対していたことを忘れ、伊吉がそんなことを言い出した。それを聴いた佐吉と平吉は思わずプッと笑った。
そして伊吉は、佐吉と平吉に対して次のように激励した。
「ええかい。男は、四の五のいらぬことを考える必要はねえ。志を立てた以上、迷わず一本の太い仕事をすればよいのだよ」
資金確保ができると、平吉はすぐさま工場建設に着手した。