「月刊なごや」に掲載されました

名古屋の古い雑誌「月刊なごや」に北路透(北見昌朗)の投稿記事が載りました。「月刊なごや」は1989年(第三種郵便許可)の創刊のようで、30年以上の歴史があります。名店とお客様を結ぶ、このような雑誌を続けられるのは大変なことだと思うと共に、今後も続いて欲しいと願います。
http://www.meiten-net.com/kitashirakawa/nagoya/

豊田佐吉翁の名古屋の「ゆかりの地」を歩こう!

豊田佐吉翁は,湖西市の生まれです。でも30歳ぐらいから亡くなる63歳まで、名古屋で暮らしていました。言わば名古屋人です。だから、市内には「ゆかりの地」がアチコチにあります。

佐吉翁の「ゆかりの地」と聞くと、どこをイメージしますか? 多くの人は「栄生の産業技術記念館」と答えることでしょう。

でも、待って下さい。栄生の工場ができたのは大正元年のことであり、佐吉翁が既に50歳近くになってのことです。

名古屋には、もっとルーツというべき場所があるのです。そこは「宝町」です。といっても旧町名ではピンと来ませんかね? テレビ塔の南側です。そこは明治29年に豊田商店が創業した場所です。佐吉翁と妻浅子がふたりで商売を始めたのです。その時、佐吉翁は29歳、浅子は19歳でした。

もう一つ、とっておきの場所をご紹介しましょう。佐吉翁の名言としては「障子を開けてみよ。外は広いぞ」が知られていますが、どこで発したのかご存知ですか? それは「袋町」です。錦三丁目に名古屋ガーデンパレスがありますが、道路を隔てて東北側のブロック(三丁目21番地)に料亭弥生があり、豊田家は重要事項を話し合う時にそこをよく使っていました。

大正8年末、佐吉は上海工場を造る目標を立てましたが、社内からは強い反対があったので話し合いの場が設けられました。佐吉はすくっと立ち上がり、障子をパシッと開け放ち「障子を開けてみよ。外は広いぞ」と言い切ったのです。

これにより上海進出が決定されました。その工場では巨額の利潤が生まれ、後に自動車の開発資金として喜一郎に送金されます。

このように市内には「ゆかりの地」が枚挙に暇がありません。一度、歩いてみませんか? 筆者のサイトでは、ユーチューブで解説しています。

歴史に学ぶ経営コンサルタント北見昌朗(きたみ・まさお)
豊田佐吉の生涯を描いた「小説やらまいか 豊田佐吉傳」を2019年に致知出版から著す。
佐吉は、母「ゑい」が苦労して機織りする姿を見て、楽にしてあげたいと織機作りを志す。周囲から理解されない中で、母「ゑい」は息子を褒めて励まし続ける。悪戦苦闘の末に動力(蒸気)で動く織機の発明に日本で初めて成功する。それは機織りを近代的な工業に飛躍させる画期的な発明だった。日蓮宗に帰依する母と子が打ち立てた金字塔だった。経営能力がなく失敗を重ねるが、後妻浅子を得て人生が拓ける。浅子は機屋の女将さんとして工場を切り盛りして豊田の基礎を築く。
名古屋市出身。昭和34年生まれ。㈱北見式賃金研究所 https://toyodasakichi.com/