豊田佐吉翁を現代に蘇らす有志の会が発足。講演をご依頼下さい。北路透。NHKの朝ドラにしましょう! 糟糠の妻・浅子が主役。
月刊誌「致知」に北路透(北見昌朗)が載りました。このような格調高い雑誌に登場するのは、一生に一回かもと想います。この雑誌は、本当に素晴らしい。日本の良心です。ぜひご購読を。
それから致知出版の藤尾社長をお招きした講演会を1月31日に開催します。ぜひご参加下さいませ。
講演会のご案内はこちら
「小説やらまいか 豊田佐吉傳」は、全国の主要書店で販売を始めました。
なお佐吉マップは、以下の三洋堂書店で発売中です。
三洋堂書店 梅坪店/三洋堂書店 いりなか店/三洋堂書店 乙川店/三洋堂書店 大田川店/三洋堂書店 よもぎ店/三洋堂書店 中野橋店/三洋堂書店 鳥居松店/三洋堂書店 新開橋店/三洋堂書店 知立店/三洋堂書店 香久山店
お問い合わせ先は三洋堂書店 新開橋店(電話052-871-3934)
三洋堂書店様、有り難うございます。北路透
北見昌朗は大学生の頃、小説家になるのが夢でした。大学卒業後、新聞の世界に入ったのも、そんな意欲があったからです。
北見昌朗は、日本史が好きでした。歴史の本を読んでいると、止まらなくなってしまうのです。
「郷学」(きょうがく)という言葉を知ったのは50歳ぐらいでした。「郷土の偉人を発掘して、後世に知らしめる学問」だそうです。この言葉は某経営コンサルタントから教えていただいたのですが、頭に衝撃が走り、すぐ書き留めたのを覚えています。
「そうだ。オレのやるべき仕事はそれだ」と興奮しました。
「郷学」の研究対象として、まず浮かんだのは「豊田佐吉翁」でした。教科書に出るほどの偉人でありながら、その実像は一般的に知られていません。知られていない理由は、書籍が少ないからです。昔の小学生の教科書で「えらい人」として出てくるぐらいです。また、テレビドラマでも採り上げられていません。
北見昌朗は、豊田佐吉翁の小説を書くことを目標に定めました。そこで歴史に関して徹底的に調べることから始めました。その過程で誕生したのは『愛知千年企業』(中日新聞)の江戸時代編・明治時代編・大正時代編という3部作でした。
また、B1サイズの古地図を制作したのも、元はと言えば佐吉研究のためでした。
北見昌朗は、平成26年に母を亡くしました。悲嘆に暮れてイギリスに旅行に行った際に、急に頭に振ってきたのです。
「そう言えば、佐吉の母ゑいも、日蓮宗だった。その母を語り部にした小説にすれば良い」
北見昌朗の母は日蓮宗ではありませんでしたが、生前よく言っていました。
「どんな宗教でも信仰している人を、私は尊敬する」と。
北見昌朗は残念ながら宗教に染まりませんでしたが、それでも信仰している人を羨ましいと思います。
そこから執筆が始まって完成したのが平成30年の年末でしたから、かれこれ4年かかっています。文字数は53万文字までありましたが、出版社から多すぎるとして指摘されて42万文字に縮小しました。
この小説の主人公はもちろん佐吉ですが、準主役は後妻の浅子です。浅子は、発明狂の佐吉をけなげに支えます。言ってみれば糟糠の妻。例えば秀吉の妻おねのような存在です。
小説の中では、家を守るために仇敵と対決するシーンもあります。
朝ドラの主人公として、まさにピッタリです。NHKはぜひ、この小説を朝ドラにして下さい。
本書は、豊田佐吉をモデルにしていますが、あくまでも小説なので史実を追求したものではありません。また現存する豊田自動織機、トヨタ紡織などトヨタグループとは何の関係もありません。
愛知銀行や名古屋銀行という銀行も登場しているが、旧東海銀行の前身をイメージにして執筆したもので、現存する愛知銀行や名古屋銀行とは何の関係もありません。
北見昌朗は、豊田さんとの接点は特にありませんでした。原稿が出来て、名古屋市長の河村たかし氏にお会いした際に、河村氏から「ところで豊田さんには伝えてあるのか?」と尋ねられました。河村市長は、もともと佐吉のことが好きで、色々調べておられます。北見昌朗が「いいえ」と答えると、その場でトヨタ自動車に電話を入れて、紹介して下さいました。そこで北見昌朗は原稿の全文をトヨタ自動車に送りました。
「豊田家の代理」ということで、トヨタ自動車の幹部が(株)北見式賃金研究所を訪問されました。訪問日は平成31年の春です。訪問回数は2回です。
そこで問題になったのは、佐吉翁の先妻である「たみ」の描き方でした。「たみ」は喜一郎を生んでから家を出て、離婚しています。離婚後の消息はあまり知られていません。
北見昌朗は、「離婚後に出世した元夫のことを良く思っている訳がない」「生後1歳の子供を置いて家を出ていくのは尋常ではない」との想いから、たみはその後不幸になり、元夫の佐吉翁を憎んでいると描きました。
豊田さんは、「たみに関する記述は子孫の方々の名誉感を害する」と指摘して、削除訂正を求めてきました。「問題箇所」は書面で出されました。
北見昌朗は、その要望をほぼ全面的に受け入れて、問題箇所を削除しました。そのおかげで、豊田さんからは、こんな返事を頂戴しました。
「『やらまいか』のご出版を進めるにあたり、北見様には誠意をもってご対応いただきましたことに、まずはお礼を申し上げます」
もっとも、メールの文末には、こんな一言もありました。
「申し上げるのは大変心苦しいのですが、あらためて、しっかりお伝えしておかねばならないのは、ご親族としては、佐吉やそれにまつわる方に関する書籍の出版は、弊社またはトヨタグループ企業が編纂するもの以外、望んでおられないということです」
北見昌朗はもともと、トヨタ自動車とか現経営者のために書いた訳でもありませんし、別に頼まれた訳でもありません。北見昌朗の意志で書いてきたことです。北見昌朗としては、豊田佐吉翁という人物は、教科書にも載っている偉人ですから、それを書くのは筆者の自由という判断です。
仲介の労を取って下さった河村市長には感謝の言葉もありません。