村上透氏(お客が増える★プロダクション代表)

ここまで書いていいのか…と心配になるほどのおもしろさ

お客が増える★プロダクション 代表
村上透

これは本当に“小説”なのだろうか

『小説やらまいか』。この作品は、はたして小説のジャンルに分類されるのだろうか。
念のために言っておくが、これは私の“うれしい疑問”である。これが小説だって? こんな小説があったのか! という賛辞表現のつもりである。

本書の帯には「蒸気で動く織機を日本で初めて発明したトヨタグループの創始者・豊田佐吉の傑作評伝小説」と書かれている。
致知出版社は、非常に優れた書籍ばかりを世に送り出している。経営者であれば、あるいは人間学の教科書を求める人には絶対的といっていいほど支持されている。その致知がつくった帯に書かれているのだ。疑問をはさむ余地はない。小説であることに間違いない。

しかし、どうにも小説を超えた読み物に感じる。
読後に思ったわけではない。上下2巻の上巻を読みはじめてすぐに、(これは小説というより…)と気になり続けた。
小説ではないとすれば、いったいどう定義すればよいのか。
伝記ものか、ルポルタージュか。経営の参考書でもあり、歴史の教科書でもある。
もっとも近いのは伝記だ。サブタイトルとして「豊田佐吉傳」とあるように、豊田佐吉の生涯を正確な事実にのっとって記録したものだからだ。

本来、小説とは虚構の物語と定義されている。いわゆるフィクションである。にもかかわらず『小説やらまいか』が虚構に感じない理由は、描写のくわしさにある。
心理描写から歴史的背景、衣食住にかかわる社会的背景、食べ物から建物、鉄道までの価格、機械部品ひとつの形状から工場全体に鳴りわたる音まで、じつにリアルに描かれているのである。

作者はすべてを見ているはずがない。作者はすべてを聞いているはずがない。そうわかっているのだが、(もしかすると、見たままありのままに書いているのかも…)と思うほど詳細だ。
どんな色の花が咲き、どんなところに住み、だれが何をしていたか。作者がその場に居合わせているどころか、読んでいる自分がその場にいて、自分の目と耳と鼻で場面を実感している気にさせられるからだ。
それでいて、親ゆえの喜怒哀楽や登場人物にふりかかる四苦八苦、機械まで含めた有情非情が生き生きと描かれている点は堂々、小説と言える。

より的確さを求めると、ノンフィクション小説になる。ノンフィクションであってフィクションであるということだ。
別の言い方をすると、小説を読んだつもりがルポルタージュも読めて、日記も読めて、歴史書も読めて、ビジネス書も読めるといった具合に、一冊で何冊分もの楽しみが得られるということでもある。

上下巻合わせて約800ページという長編ものだが、まだ本作品を読み始めていない人も臆せずに読者になってほしい。
この作品は、主人公である豊田佐吉(とよださきち)の母親“ゑい(えい)”が語り部となり、数ページごとに“ゑい”が場面ごとに要約を語るスタイルで展開する。
要約の次に詳細が描かれる形式自体がわかりやすいうえ、読むストレスを感じさせない。
だからドキドキワクワクヒヤヒヤしながら、そしてシクシク、人によってはワンワン泣きながらも一気に読めてしまうのだ。

「やらまいか」がやらまいか! というほど

世界のトヨタを生みだした豊田佐吉の生涯を描いた偉人物語。
母親が苦労する姿を目にした佐吉が織機を改良していく発明物語。
母親・ゑいや子供・喜一郎といった親子の情愛を描いた家族物語。
父親・伊吉をはじめ、平吉や佐助といった兄弟との家族物語。
世の中に存在しなかった自動織機が普及するまでの経営物語。
富国強兵・殖産興業・日清日露といった明治時代の歴史物語。

さまざまな物語性を備えた読み物だが、それにしてもよくここまで調べたものだ…と驚くほどくわしく書かれた小説である。
手にとった資料はどれくらいにのぼるのか。察するに小さな図書館に匹敵する資料に目を通したに違いない。

作家には時間がある。小説の舞台となる土地に足を運び、人に会い、資料を読み、史実を調べ、物語をつむぐ時間がある。
作家・北路透氏も純粋な作家であれば好きなように時間をつかえるが、北路氏の本名は北見昌朗氏である。
本業は経営者。職員30人、顧客300社を抱える社会保険労務士事務所の所長である。47都道府県に50人の塾生を擁する賃金コンサルタント養成塾の塾長である。忙しくないはずがない。
しかし、好きこそ…だ。大学時代の夢は小説家になることであり、新聞社へ就職。独立してからも本業に関連した書を書き上げ、出版した数は二十数冊にのぼる。

なにがそこまで北見氏の執筆意欲をかきたてるのか。
「実は筆者の実母が亡くなったことがきっかけだった」「そこで母と子を主題にした小説を書こうと着想した」と、本書のあとがきに記している。
たしかにテーマは母と子の愛だ。しかしテーマとは「原動力」。原動力だけで800ページもの大作を、よりによって残業問題やら働き方改革などで大忙しの社労士事務所経営者が4年間をかけて書くことは至難の業だ。
「推進力」が不可欠である。北見氏にとっての推進力とは何か。
それこそまさしく「やらまいか」の精神だろう。

「やらまいか」とは、静岡県西部の方言で「やってみよう!」といったチャレンジ精神を表す言葉だそうだ。
この「やらまいか」という言葉が登場する箇所は上下巻で二十あまり。やらまいか! というほど「やらまいか」が使われている。
偉人物語には“敵”がつきものである。主人公の前途を絶望的にさせる邪魔者が次々と現れる。
本作品にもやはり、これでもかというほど一難去ってまた一難。主人公・佐吉の人のよさを歯がゆく思い、そのたびに自分までやらまいか! と一緒に声に出してしまったことを、ここで打ち明ける。

はたして何をもって推進力と想像するか。北見氏自身、「やらまいか!」と胸の内で叫んできたと思われるからだ。
北見氏の本業である北見式賃金研究所のサイトには、北見氏のプロフィールが掲載されている。
「今に見ていろ銀行め!」「絶対に良い給料の会社になってみせる」「負けるものかと年中無休」などなど、あたかも主人公・佐吉と同じ“路(みち)”を歩んできたかのような思い出が記されている。
経営に必要なことは経営の「やり方」だけではない。経営者としての生き方、人としての「あり方」もそろって初めて継続できる。
経営者としてのみ比較すれば、豊田佐吉氏も北見昌朗氏も同じ「やらまいか!」精神で生きてきたのだと思う。

以下、少しずつではあるが、この小説の魅力を述べてみたい。

ここまで書いていいのか…と心配になるほどのおもしろさ

豊田佐吉をとりあげたこと。生涯を明らかにすること。小説というスタイルで世に送り出すこと。
これらは企画が秀逸であることを意味する。
それ以上に、この小説の読者が驚くのは、豊田家を取り上げるという、“タブー”とも言える領域に著者が踏み込んだことだろう。
とりわけ、「人間関係」図(p6~p7)に描かれている“佐吉より下部”の登場人物との関係が大衆文学的おもしろさを見せている。
艶子は佐吉の「設計図を盗む」。
艶子は佐吉を「訴える」。
伊藤久八は艶子を「怨む」。
艶子は伊藤久八に「罪を擦り付ける」。
艶子と鷺田良希は「愛のない結婚」。
鷺田良希は佐吉を「騙し討ち」と関係を描いている。
ここまで書いていいのか…と心配になるが、書いていいのである。小説なのだから。
史実をもとに人間の愚かな一面まで深く切り込むこの作品に、独特の筆力を感じる。

ここまで書いていいのかという“心配になる”おもしろさではない、一般的にいうおもしろさも随所に読み取ることができる。
佐吉が小学校を卒業する際に書いた作文がある(上巻p51)。
“奇想天外な作文”であるが、将来を暗示している。佐吉の作文は、野球選手のイチローが書いた作文を思い出させる。世界に通用する大物は、不思議と作文文集に将来の自分の姿を描いているものだ。

織機の修理工としての採用を願っていたが、「岡田屋」という法被を見て、大工として奉公することになる(上巻p109)。
織機など機械関連の仕事に就くものだと思い込んでいた読み手にしてみれば、佐吉の機転にただただ感心するのみだ。願望、熱意が思いを実現させる一例である。

「佐吉は朝五時にそっと寝床を出た」(p143)。
生涯、引越しの回数が多かった人物の話は読んだことがあるが、家出が多い創業者に初めて出会った。佐吉は何度、家を出るのだろう。佐吉は、男のあこがれだ。

小説のおもしろさは「登場人物」と「次々と起こる出来事」だけではない。「物語の舞台」も小説としてのおもしろさを引き立てる。
この作品は、全編を通して蒲焼町、宮町、島崎町、伝馬町、袋町など、小説の舞台当時の地名が登場する。
東京、京都、大阪を舞台とした歴史小説では旧町名は馴染み深いが、東海地方の作品は少ないため、たいへん興味深く読める。旧町名復活を願う歴史研究家だからこその成果である。

経営も労務も歴史は繰り返す

本書は経営の参考書でもある。
全編をつらぬくのは、「商品3分 売り7分」であり「弱者は強者にのみこまれる」経営の世界だ。ただし、基本は「経営の原則に忠実な企業はお客が満足し、お客が増える」ことである。

「糸繰返機(かせくりき)ノ売リ先一覧」(上巻p235)
商品と整合性のある客層に絞り、リストアップしたものだろう。

「お客様から納期遅れだと、めっちゃんこ催促が来ていました。松本取締役からもう出荷せえと指示されましたので」(上巻p376)
製販の関係は昔も今も変わらないようだ。

「その頃の豊田商會は、売上高の八割が服部商店向けだった」(下巻p148)。
一社に依存する怖さを教えてくれる。

「なあ、秋ちゃん、結局、発明と営利は両立しねえ。本来なら、発明家はあくまでも発明に徹することじゃ」(下巻p219)
技術力や商品力が高いからといって、経営もうまいとは限らない。
どれだけ商品がいいものであっても、営業しだいであることを知らしめてくれる発言の連続である。

戦略的な面だけではない。“人が大事”であることは、時代も業種も規模も地域も問わず共通していることを教えてくれる。
「兼三郎さんは、店員を大事にされたそうです。それが発展の原動力だったとか」(下巻p16 ゑいの言葉より)。
織機は手段。発展の原動力は、人を大事にする経営だ。

労務上も、現在と通じることが繰り返されていたことがわかる。「採ってはいけない人を採ることで大きな損失を生む」ことは、伊藤久八や艶子の登場でいやというほどわかる。

「ここで佐吉の悪い性格が出てしまった。頼まれたら嫌といえない性格である」
「このことが、佐吉の人生に禍をもたらすことになる。後悔しても後悔しても足りないぐらいの大きな禍をもたらすとは、その時想像だにしなかった」(下巻p28)。
これは小説だ…因果応報、勧善懲悪、こんな奴らにやられてたまるか…と、つい読み物であることを忘れて、のめり込んでしまうことがたびたび。
佐吉はよくもまあ、こんな連中の妨害に遭いながら、あきらめずに乗り越えたものだと感心する。

本業を変えてほしい(笑)

事実にもとづき、飾らず、ありのままの姿を描く。舞台で役者が演じる脚本を、小説風に読みやすくしたような文章である。目の前に佐吉という主人公が動いているようだ。
北見昌朗氏は、これまでは社会保険労務士としての著作がほとんどであり、超歴史好きの社労士兼経営者としての顔を我々に見せてきた。
しかし、北路透氏は別人だ。小説家である。
私と同名だから持ち上げるのではない。いや、透という名前はたしかにいいが、名前を変えれば、いい小説が書けるわけではない。北見昌朗氏とは完全に異なる人間、北路透氏は、奥付にあるように名古屋を愛する歴史経済小説作家である。

もの書きの世界には「筆が乗る」「筆が進む」という言い方があるが、上巻の202ページから“筆が変わる”のがわかる。
筆が変わるという言い方は文章の世界に存在しないが、そう表現したくなるほど文調が変わったように感じた。
一文が短く、締まった文体。凝縮された描き方。文章を読んでいて緊張感を感じさせるのは、事件性がある物語の内容いかんではない。書き方である。筆の運びである。
800ページ近い長編だが、この202ページ目以降、文章が格段に読みやすくなり、長さを感じさせない小説が完成したのだろう。

「まさに音の協奏曲だった」(上巻p307)。
「火災から七日たった大寒の候、豊田商會の庭には蝋梅が黄色い花を咲かせていた。朝、霜柱をサクサクと踏みしめて豊田商會にやって来る者がいた」(下巻p149)
「三月六日の啓蟄の候、裁判は始まった。ゴロゴロという春雷の音が裁判所の中まで響いてきた」(下巻p159)
「ちょうど夕立が上がった頃で、人々は蝉時雨の中で号外を奪い合った」(下巻p234)。
「たみが家に入っていくと、ゑいは優しい笑顔で迎えてくれた。信仰心のある者だけが持つ、青空のように澄み切った笑顔だった」(下巻p245)。

これらの文章を目にして、北見昌朗氏の顔は思い浮かばない。北路透という作家しか、このような優れた文章を書ける者はいないから当然だ。
北見氏は偉大な社会保険労務士であり、経営者である。それだけに実名と作家名との切り替えがうまくいかないのは私だけか。
こうなったら考えられることはひとつ。社労士業は従業員や弟子にまかせ、北見昌朗氏の本業を小説家にしてしまうことだけである。
次なる作品が楽しみだ。